麦粒雑記

麦粒(ムギリュウ)が日々の出来事をあれこれ綴るブログ。

市民大学へ!

市民大学は5回目に

今回は鎌倉・室町時代

 この日は火曜日、つまりまちだ市民大学の〈町田の歴史I〉の講義の日でした。

 今回は鎌倉・室町時代の町田――この地に息づいた人々――というタイトルでやっていまして。

 今回もまた、気になる話が盛沢山でした!!

 

 町田市は東京都の離島を除けば南端にあるので、鎌倉に近く、鎌倉時代は結構栄えていたようで、僕が個人的にざっと町田の歴史を調べたときも、この時代に町田を支配していた小山田氏という一族がかなり印象に残ったりしていました。

 

 この小山田氏というのは武蔵七党横山党や、秩父平氏からの繋がりを持つ一族です。

 ちなみに、横山党の家系図を見ると現在の町田市の境川沿いの地名と同じ名前の人物が〈相原、山崎、成瀬、小山〉など、かなりいたりします。

 また、淵野辺の由来となったと思われる野辺氏(矢部氏)もこの横山党の諸氏だといいます。

 

 横山党が最初に登場する史料は平安末期の『長秋記で、この際は内記太郎を殺害した横山党を追討するように命令が下りたことが書かれています。

 その後、保元物語の中に横山党の粟飯原氏と、秩父平氏小山田氏が登場しており、この際に登場した小山田有重が小山田氏の祖であり、小山田別当の別名を持つ人物です。

 

 別当というのは〈〉のトップのことであり、〈〉というのは馬の飼育を行う場所の事でした。

 その関係で、この付近の古い地名には馬にちなんだものが多く、馬駈、馬場久保、馬場などがあったそうです。

 ちなみに、馬駈(まがけ)は自分の家の非常に近くで、いまでも〈馬駈交差点〉などに名残がありますが。当時は〈馬欠〉と表記していたらしいです。

 また、この一帯にはロウバと言われる地名がいくらかあり、それは〈牢場〉などの字が当てられていますが、元は籠馬だったといいます。

 

 で、話を小山田氏や横山党に戻すと。

 彼らは源頼朝に仕えたため、町田市はかなり栄えていたようでした。

 ただ、頼朝亡き後、元久2年(1205年)に畠山重忠の乱があり、これによって小山田氏も粛清されてしまったそうです。

 

 ちなみに、この生き残りが承久の乱では幕府方についていて、一方横山党は京方についたという話でした。

しかしその後、北条氏に怨みをつのらせていた小山田一族は宝治合戦で北条氏と対立した三浦氏に与同したが敗北し、没落してしまったそうです。

 

 更にその後。中先代の乱の時に、町田市で合戦があり。

 現在でもそこは井出の沢古戦場として残っています。ちなみに古戦場跡には現在、菅原神社が建っており、この菅原神社は町田三天神の一社となっています。

 

 さて、小山田氏の一人には湊川の戦い新田義貞の身代わりになって亡くなったとされる小山田高家という人物がいます。

 この人物、現在の忠生の地名の由来となっており。

 明治時代に新しく村名をつける際に忠義のある者が生まれた〉として〈忠生〉と名付けられたといわれています。

 

 どうやらこの小山田高家の碑が神戸市東灘区にあるそうなのですが、一度行ってみたいかと思っています。

 

 さて、ここからはお寺や修験道の話を。

 

 まず、町田市にはかつて真光寺という寺院があったらしいという話。

 これは現在の真光寺という地名の由来と推測されているのだが、中世末には廃絶してしまったらしいという話でした。

 ただ、これは現在の観泉寺というお寺がその場所であった可能性が高いらしく、その根拠として「創建時期より古い、15世紀の仏像があり、しかもそれが観音菩薩であること」が挙げられるらしく。

 現在のお寺は曹洞宗であり観音菩薩を本尊としないので、かつて別のお寺があったのではないかという話でした。

 

 また、町田から発見されている大量の古銭と寺院の関係も面白く。

 町田市では森野や能ヶ谷からそれぞれ大量の古銭が発掘されているのですが、どうやらどちらも妙延寺妙行寺という日蓮宗寺院の側だったという話で。

 なんでも、日蓮宗では現世利益を説くので、その関係で商工業者の信仰が厚く、貨幣なども収められたのではないかという事でした。

 更にこの二つの場所は、森野が〈境川、鎌倉古道〉能ヶ谷が〈鶴見川、はやの道に近く、川や道による流通とも関係しているのではないかという話でした。

 

 更に、板碑と言われる、石でできた卒塔婆についても興味深く。

 都内で、同じような字体の板碑が多数見つかっているらしく、これは多摩川に流通・文化圏が存在したからではないかという話でした。

 

 そして、最後に。個人的に一番興味を持ったのは、修験道の話で。

 この時代の修験道には熊野信仰、山王信仰白山信仰などがあるのですが。

 その関係の神社仏閣を町田市で見ると、それぞれ広まった範囲が違うという話がまず面白かったです。

 

 また、町田市に本山修験道道興という僧がやってきていたらしいという話もあり。

 どうやら道興は廻国雑記というものを書いているのですが、その中に地名からするとどうも町田市図師あたりと推測される記述があるようでした。

 この時に道興が泊まったというお寺は現在の円福寺あたりにあったという話で。

 その根拠が円福寺は江戸時代に創建されたのだが15世紀ごろの不動明王があり、しかも不動明王修験道に関わるもので、現在は曹洞宗禅宗)なので今の寺院の前に別の密教系のお寺があったのではないかという話でした。

 ちなみに、そのためか。円福寺境内には道興の句碑があるという事でした。

 

 そして、以前このブログでも少し書いた

雄龍籠山、川尻八幡、箭幹八幡が直線に結ばれるという話について。

(その記事についてはこちらを参照)

 町田市についての調査 - 麦粒雑記

 

 どうやらこれには続きがあり。

 箭幹八幡の参道のうち一つを延長すると大山に向かうのですが。その途中には八菅山があるそうで。

 この大山は今回扱った時代では天台宗本山派の修験道の山であり、八菅山の八菅神社は八菅山七社権現として知られる本山派

 そして箭幹八幡神仏習合の神社ですが、当時は半沢覚円坊別当で、この覚円坊も本山派のお寺なので、それぞれが本山派修験道でつながっているという話でした。

 

 この修験道自体、僕は仏教に加えて日本古来の山岳信仰の要素を強く持っているので、その点で非常に興味があったのですが。

 こうやってみると、何か面白いものを感じ、ますます詳しく知りたくなったというところです。

 

 さて、こんな感じで。

 鎌倉から室町にかけては栄えていた町田地域ですが。

 鎌倉は滅び、同時に府中が衰退していく過程で、その通り道だった町田も衰退していくのでした。

 そして再び町田が栄え始めるのは、横浜までの絹の道が現れる幕末まで待たなければいけないのですが……その間も当然、町田には人が住んでいる訳で。

 

 さて、彼らはどんな生活をしていたのか。

 それはこれからの講義にて、お楽しみに!! というところでした。

 

 勿論、このブログでも今後も更新していくので、よろしくお願いします!!