麦粒雑記

麦粒(ムギリュウ)が日々の出来事をあれこれ綴るブログ。

自分の価値観は自分のでしかない

なのでやはり〈主義〉ではない

そして分かれ道で立ち続ける……か?

 前回僕は〈反出生主義的な人〉であって〈反出生主義者ではないと書きましたが、何故〈主義〉ではないか。

 というか、何故最初にこの言葉を知った段階から〈主義〉は苦手と言っているか。

 

 それは僕自身が「たまたまその集団に属していた場合に、その集団の暗黙の掟みたいのに従わされたり、変な仲間意識を持たれたりするのが嫌」だからだったりします。

 

 例えば、流石に法律を犯したりはしませんが*1

 たまたまその国に生まれたからと言って何故「この国の人ならこうである」という暗黙のルールみたいのを守らないとならないのかがわからないし。

 

 小学生頃から「同じ学校の仲間」みたいな価値観は。

「そんなの動物図鑑でネコの仲間と書いているようなもので、友達という意味ではない。何故例えばスポーツの試合で自分の学校チームは応援し、他の学校チームは応援しないのかわからない。個人的な友人だというならわかるが」と思っていまして。

 

 その最大のものが「何故人類なら人類全体のために何かをしないといけないのか」というところに来ているので。

 それもあって〈反出生主義的な価値観〉を主張している*2のですが。

 一方で〈反出生主義者〉としてカテゴリー分けされた際に「〈反出生主義者なんだからこうであるとされたら嫌だというのがあり〈主義〉ではないとしていました。

 

 というか。

 僕の場合、11歳頃からの人生によって結果的に「人類は苦しむ人を増やさないために、滅んだ方が良いのでは?」と思ったので。

〈反出生主義〉を知って、後から価値観をそれに近づけた訳ではないため。

 おそらく、一般のそれとはかなり異質な価値観を持っているかとは思います。

 

 まあ、その一つが「一応は、人類存続の必要性が存在する可能性は認めているという事です。

 誤解しないでいただきたいのは「存続する必要性がある」ではなくあくまで「必要性がある可能性もある」なのですが。

 

 で、これも踏まえたうえで。

 僕はとりあえず分かれ道に立っている気分で。大体2つの道があり。

 厳密には思いつく限り4つなのですが、うち2つは行きたくないという感じです。

 

 先に行きたい、あるいは行ってもいい方向を言うならば。

「論理的に考えて、人類存続は害である」としてこのまま進むか。

「論理には限界があると認めて、人生の意味を探す」の2つで。

 

 逆に行きたくない道というのは。

「弱者が強者の犠牲になるのは当たり前」として非情・残酷を容認する道か。

「こんなことを考えたのが間違い」として、なかったことにする道です。

 

 行きたい道のうち、最初のものはもう長々と今までの記事で説明したので、強いて言えば、意見の補強になるか。あるいは論理によって〈人類存続の必要性〉を導き出すという方向になりますが。

 論理に限界があると認める道は、まあ、オカルト的な話になるので一般の〈反出生主義者〉には非難される可能性が高いかと思います。

 

 で、言うまでもなく。

〈弱肉強食〉のような道は僕が感情的に行きたくない道で。

 これを認めれば「社会になじめない弱者を虐げるのも、子供という弱い立場を親が利用するのも当然」と一応理屈は通るのですが。

 果たしてそれを良しとしていいものなのか……という話になります。

 

 最後の「考えるのが間違い」。これについては実は中学時代の教師に。

「どうせ宇宙が滅びるのになぜ生きる?」と質問した時の回答が。

「それは考えてはいけない事だ」だったので、下手をしたらそれで済ませている大人はかなり多い気もするのですが。

 

 考えないことができたら苦労はしない……というか、最低でもこの中学時代から30歳の現在まで考えているものをどうやって捨てるのかの方が難しい。

 となります。

 

 で、まあ。さらにオカルト的な話だけしておくと。

 前に神やら運命やらについて。

「人間より圧倒的に上の存在がいたとしても、その存在を人間は否定も肯定もできない」と書いたのが、僕の大体の価値観で。

 なので存在の否定まではしていないのですが。当然肯定もしていないというところです。

 

 また例えば「奇跡という一回きりのものを科学という再現可能なことで成り立つものでは扱えない」とか。

「仮に世界のすべてを理性で証明できたとしても、人間の能力では証明した瞬間にとうに昔の世界になっているから使い物にならない」とか。

「〈理性が優れているというのを理性で出す〉のは〈天才の私が天才と言っているから天才〉というぐらいの意見だ」とか。

 

 理性や論理の限界についてはいくらでもいえるのですが。

 ただ、じゃあ理性に変わる何かがあるのかと言われると、全く思いつかず、強いて言えば〈直観〉くらいになります。

 

 この直観。単なる〈勘違い〉の可能性もあり。

 逆に今までの経験から、脳が論理的思考をすっ飛ばして結論を出した場合もあって、実際学者などにはまず結論が沸いて、それを論理で証明する人もいるので。

 直観が〈間違い〉とも言えず、しかも後から僕自身が論理で後から証明できるかと言われるとこれもまたわからないので非常にややこしい問題でもあります。

 

 ええと。例えば特殊なものが見える、あるいは聞こえるという人がいて。

 それが〈幻覚〉なのか、それとも本当に何か特別なものが見えているのかはわからない*3

 仮に「正常な人間が見えていないなら幻覚だ」と言われても、じゃあ「人類の大半が集団で幻覚を見ていたら本物か」みたいな話になるので。

 非常に厄介な問題だったりします。

 

 で、実のところ。

 僕はたまに「自分は普通の人には当たり前に感じるものが感じない人」なのではないかと思っていることもあって。

 

 これは例えば、普通の人には「子孫は残すべきである」と、何か上位存在のメッセージを感じ取れるのですが、僕には感じ取れていない。

 だが、普通の人は〈感じ取れるのが当たり前〉なので、わざわざそれを話題にすることはなく、僕みたいな〈感じ取れない人〉が何を感じ取っていないのかさえ理解できない。

 

 みたいな感じなのですが……。

 まあ、こんな感じで一応非科学的なことも否定はしていません

 

 この科学的な意見に加えて非科学もあるとしているのは。

 オカルト、科学、これに加えて芸術などは。「まだ未知の部分がある」ことは前提として持っていて。

 

 オカルトは「未知のまま利用する科学は「未知の部分を解き明かすであり。

 芸術に関してはそれとは別に作品には作者本人しかわからない要素や、作者自身すらわからない要素もある。それを推測して楽しむのが芸術という価値観がある。

 と、僕が思っているからかもしれません。

 

 逆にそれぞれのものでも「未知のものを鵜呑みにする」「未知のものはないとする」「作品のすべてを理解できるとする」ようなタイプの人とは相性が悪いかと思います。

 

 まあ、とはいっても。

 結局、非科学的な事を考慮したうえで僕は。

人類存続を良しとするのは非科学的だし、非科学を受け入れるとしても自分自身が感じ取っていないからどうしようもないという意見で子孫を残すことに反対しているのですが。

 

 それに人類存続の意味」が「高次元存在の家畜」かもしれませんしね。

*1:ただ、本来人間は「人間として悪事をするのが嫌だからしないのであり、違法行為はたまたま嫌な事と一致している」というのが普通で「違法行為をすると罰を受けるからしない」では問題ではないかと思います。なんて、自らを〈人間ではなくヒトという獣〉と言っている者が言っていいのかわかりませんが

*2:仮に〈人類〉という種のためなら、子孫を残す方が良いのですが。それと人間という各個人の幸不幸を考えるのは別の問題です

*3:この前読んだ占いの本で占い師が〈見ている〉というのは〈目に映るのではなく、脳が見えたと認識する〉とありました。が、じゃあ幻覚かと言われると今度は「今あなたの目の前にあるこの文章が本当にある証拠は? 画面に触れたとしても触覚が幻覚の可能性もありますが」となり、最終的には〈水槽の中の脳〉みたいな話になっていくという……